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二十数年前の暑い夏の出来事

朝からとても暑い日だった。家の者はすべて出かけ、飼い犬と私が残された。どこか涼しいところに行こうと、生野の段ヶ峰に向かった。ゴルフ場から先は車が入れず、 林道の途中の沢沿いに登っていたが、尾根に出る手前で道を間違えた。尾根はすぐだったので、藪こぎで突破しようとした。夏の盛りだったので、たいした時間ではなかったが結構疲れた。尾根にでると道らしきものにたどりついた。少し進むと、草も木も生えていない30坪ほどの落ち着いた丸い空間に出た。ここでしばらく休憩することにした。しばらくすると下の方から「チリーンチリーン」と鈴の音が聞こえた。登山者の熊鈴だろうか近づいてくる。もうすぐ現れるだろうと待ち構えていると、突然、音が反対側に移り、少しずつ遠ざかっていた。いったい何だったんだろうと困惑したが、不思議と怖さはなかった。犬と一緒だったが、まったく反応していなかった。道は登山道でなかったようで、その先で本来の道に出た。尾根道は一面の笹原で、とにかく暑かった。山頂では3人連れがビールを飲んでいた。どう見ても鈴の主のような人物はいなかった。何年か後に、同じ登山口から登っ間違えた地点は本来の分岐の少し手前だった。登山道に合流した道は見つけるとこができなかった。そもそも登山道と藪こぎした斜面の間には平らな空間などなかった。あの体験は、夏の暑さが引き起こした幻覚だったのだろうか。

統一教会のこと

   私が大学に入学した1970年代中頃、あちこちのキャンパスに「原理研究会」というグループが出没していた。昨今、世間を賑わしている統一教会の学生団体である。新左翼運動も過激化に伴って衰退し、入学して5日後、我が校を拠点としていた革マルが他校から襲撃に来た中核によって、トップ5人がやられて活動できなくなった。変わって勢力を伸ばそうとしてきのが、民青、原理、東思研(東洋思想研究会:創価学会の学生団体)だった。元々が左派的な思考の強い学校だったこともあり、民青はそこそこ勢力を伸ばしたものの、他は学内では活動しなかった。しかし、戸別訪問や街頭でのオルグはよく聞いた。実際、大学から離れ、最寄りの駅からバスで30分ほどかかる下宿に、可愛い女の子が勧誘に来たことがある。「地方出身で同窓生もおらず(実際はひとつ上の先輩がいたが、結局あえずじまい)、まだ友達もできず不安でしょう」。みたいなことを言って、自分たちの主催するレクリエーションに参加しませんか、という誘いだった。私の住所や個人情報を知っていること、素朴そうで可愛い女の子が訪問してくる不気味さに、適当な理由をつけて帰ってもらった。友人のK君は街で可愛い女の子に声をかけられた。彼のタイプだったので、喫茶店について行き、後日ある集まりに誘われ、無論それにも参加したが、やがてK君は誘われなくなった。そんなことがあってしばらくすると、原理研がキリスト教系のA大学やR大学、東大や早稲田にも勢力を伸ばしていることが伝わってきた。後にわかったことだが、統一教会が求める学生は「頭が良い」「経済的に恵まれている」「従順」「世間に認知されている」であり、我が校の学生はどれにも当てはまらず、お陰でK君もあちらの世界に行かずにすんだわけだ。  教員になると、身の回りに統一教会の信者はいなかったが、生徒に新興宗教の信者2世がいた。輸血を拒否することで世間に知られた宗教の信者は、入学早々いろいろと申し入れてきた。輸血問題もだが、それより困ったのは「校歌拒否」「柔道拒否」「騎馬戦等の闘争的演技はしない」「十字架を持たせろ」だった。「校歌は無理強いしない」「柔道はしなくて良いが成績は不利になる」「体育祭の競技については別途相談」「十字架についてはお守りのように袋に入れて身につけても良いが、人から見えないように」と約束してもらった。ある生徒は、十字架を見える

感染症は災害だと言えるだろうか

 5月15日のSNSにこういう投稿をした。今でも、感染症は災害の一つであると考える。感染症そのものだけでなく、それが作り出す社会そのものが災害だと思う。このことにしっかりと向かい合わないかぎり、社会は良くならないと考える。ある意味、社会を変える好機にしなければ、我々の苦しみが生かされない。  「災害は、集合ストレス場面という、より大きな範疇の一部である。集合ストレスは、社会システムのなかの多くのメンバーが、そのシステムから期待する生活条件を得ることが出来なくなったときに起こる。ここで生活条件とは、物理的環境の持つ安全性・攻撃からの庇護・食物や身を寄せる住居や収入の供給・正常な活動を営むために必要な指示や情報、などを含んでいる。集合ストレスは、社会システムの内・外のいずれかの原因で起こり得るものである。外部的原因とは、社会システムをとりまく環境における好ましくない大きな変化である」。  かなり古が、 A・Hバートンの「災害」の定義である。現在の状況を見ていると、コロナはこれに当てはまると言えるだろう。しかも、新規感染者数が下がり、自粛が緩和されだしたが、「生活条件」は良くなっているだろうか。  災害という視点で捉えると、「収束されない」、「北海道のように第二波がくる」状態になると、集合ストレスは、今以上に高くなると考える。  「自粛警察」なるものも、集合ストレスにより生じ、また、集合ストレスを引き起こす。東日本大震災の時にも似たような現象が見られる。「学習していない」のではなく、日本の社会の中に、それを発生させる仕組みがある。「自粛自警団」と言う人もいる。災害とコミュニティを研究している身としては、避けて通れないと思っている。完全収束、そしてその後をしっかりと見てゆかねばならない。

コロナ禍のマスク

  「口裂け女」を覚えておられるだろうか。今から40年程前に流行った怪談話である。どこから始まったのかは解らないが、ゆっくりとしたスピードで各地に伝播していた。丁度教師になった頃で、我が校区にもやってきた。校区と街をつなぐ国道はお誂えのトンネルがあり、そこに登場したかと思ったら、一気にどこかへ行ってしまった。寂しげな所、美しそうな女性、マスクという組み合わせが定番だった。考えてみると、マスクなんてほとんど見かけることはなかった。  十年ほど前から、冬になるとインフルエンザも流行っていないのにマスクをつける生徒が増えてきた。推測だが、進路をひかえた3年生が,予防のためにつけ始め、それを下級生がまね、学校中に広がったのではないかと思う。我が校だけではなかったので、高校生か塾が始めたのかもしれない。  給食当番でもない限りマスクなどつけなかった私には、教室の半分以上の生徒がマスクをした状態で授業をするのは違和感があった。生徒が無表情に見えるのだ。口裂け女がマスクをしていたのは、裂けた口を隠すだけでなく、何となく違和感を感じさせるアイテムだったのかもしれない。  さて、マスクが普通になった日常だが、中高生の多くがつけていない。彼らが何故つけていないのか、マスク警察のおじさんとは違った意味で気になる。医学的な意味を離れ、道徳的な意味をもったマスクに対する抵抗(そうであれば面白いが)なのか。それとも「ダサいのか」。  今や、マスクをしないことが違和感を感じさせる世の中になるとは思いもよらなかった。口裂け女もさぞ困っていることであろう。

コロナウイルス蔓延下の防災

防災関係者が発言を始めていますが、コロナウイルスが蔓延しているなかで、誰もが考えておかなければならないことが「災害時での避難」です。「感染」は災害下にあると言える。この状態で別の災害が発生すると「複合災害」となる。こうなると、今までの想定では対応できなくなる。避難所を「三密」にしないためには「垂直避難」「車中泊」も選択肢とし、「避難所」を安全にして、災害弱者の収容を優先する必要がある。いずれにしても、事前の準備が必要になる。近年の状況では、あと一月もすれば気象災害が発生する。いま地震が発生するかもしれない。これまでの想定が通用しない状態が起こっている。個人、家庭、地域、行政、それぞれのレベルでの見直しが喫緊の課題だと言える。

防災甲子園

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防災甲子園をご存じだろうか。全国の防災教育に取り組む学校や団体がエントリーし、兵庫県が表彰するという催しです。現職最後の年に、この取り組みにかかわっているNPOのすすめでエントリーをした。さすがに1年目から入賞するのは難しかったが、それがきっかけとなり、毎日新聞で全国に紹介されることとなった。

環境教育をすすめる上での留意点

地域資源と環境教育  教育現場を見てみると、課題教育と言いながら後回しにされているものがある。私が力を入れてきた防災教育もその一つで、学校間に大きな温度差が存在する。「環境教育」は現職の時に興味を持っていたものの、結局、力を入れずに終わってしまった。昨年度の大学院での授業を通じて、環境教育の持つ可能性をと強く感じた。現場の先生に環境教育を通じた学びを進めてもらいたいと考え、その時のレポートをここに上げます。 「環境教育をすすめる上での留意点」 一.はじめに  環境教育は生涯にわたり行われるものであるが、全ての人々を対象とする点では義務教育の果たす役割は大きい。平成 19 年の改正学校教育法では「義務教育における教育の目標の一つ」と位置づけ、それに基づく学校指導要録は「環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養う(総則)」 ( 1 ) と述べられている。  環境教育と地域の関わりは、地域を「自然環境、伝統や文化などの地域の資源を保護・活用している地域」(小3・4年社会)と捉え、「持続可能な社会の構築のため,地域における環境保全の取組の大切さ」(中学社会)を理解し、「体験活動,観察・実験 , 見学や調査,発表や討論などの学習活動」(総合的な学習) ( 2 ) が求められている。つまり、地域の身近な問題に目を向けた内容で、身近な活動から学習を始め、家庭や地域社会と連携し、学校で学んだことを家庭や地域社会での生活に生かし、日常生活の中での環境保全のための取り組みも意識的に行う児童生徒を育てることが環境教育と述べられている。  担任が各教科を横断的に授業を行い(近年では高学年で一部教科担任制を取る学校も多い)、生活科から地域を教材としている小学校においては、地域と結びついた環境教育を行うことは比較的行いやすい。県下で行われたアンケートでも、地域学習を重点領域に置いている学校の9割が環境教育の視点で行われている ( 3 ) 。しかし、中学校では、各教科の学習内容をふまえ、教科の枠を越えた取り組みが弱く、また、総合的な学習においてその対象として地域を扱うことも少なくないが、環境教育という観点から取り組みが行われることは少ない。   環境教育に限らず、地域資源を活用するメリットは、