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感染症は災害だと言えるだろうか

 5月15日のSNSにこういう投稿をした。今でも、感染症は災害の一つであると考える。感染症そのものだけでなく、それが作り出す社会そのものが災害だと思う。このことにしっかりと向かい合わないかぎり、社会は良くならないと考える。ある意味、社会を変える好機にしなければ、我々の苦しみが生かされない。  「災害は、集合ストレス場面という、より大きな範疇の一部である。集合ストレスは、社会システムのなかの多くのメンバーが、そのシステムから期待する生活条件を得ることが出来なくなったときに起こる。ここで生活条件とは、物理的環境の持つ安全性・攻撃からの庇護・食物や身を寄せる住居や収入の供給・正常な活動を営むために必要な指示や情報、などを含んでいる。集合ストレスは、社会システムの内・外のいずれかの原因で起こり得るものである。外部的原因とは、社会システムをとりまく環境における好ましくない大きな変化である」。  かなり古が、 A・Hバートンの「災害」の定義である。現在の状況を見ていると、コロナはこれに当てはまると言えるだろう。しかも、新規感染者数が下がり、自粛が緩和されだしたが、「生活条件」は良くなっているだろうか。  災害という視点で捉えると、「収束されない」、「北海道のように第二波がくる」状態になると、集合ストレスは、今以上に高くなると考える。  「自粛警察」なるものも、集合ストレスにより生じ、また、集合ストレスを引き起こす。東日本大震災の時にも似たような現象が見られる。「学習していない」のではなく、日本の社会の中に、それを発生させる仕組みがある。「自粛自警団」と言う人もいる。災害とコミュニティを研究している身としては、避けて通れないと思っている。完全収束、そしてその後をしっかりと見てゆかねばならない。

コロナ禍のマスク

  「口裂け女」を覚えておられるだろうか。今から40年程前に流行った怪談話である。どこから始まったのかは解らないが、ゆっくりとしたスピードで各地に伝播していた。丁度教師になった頃で、我が校区にもやってきた。校区と街をつなぐ国道はお誂えのトンネルがあり、そこに登場したかと思ったら、一気にどこかへ行ってしまった。寂しげな所、美しそうな女性、マスクという組み合わせが定番だった。考えてみると、マスクなんてほとんど見かけることはなかった。  十年ほど前から、冬になるとインフルエンザも流行っていないのにマスクをつける生徒が増えてきた。推測だが、進路をひかえた3年生が,予防のためにつけ始め、それを下級生がまね、学校中に広がったのではないかと思う。我が校だけではなかったので、高校生か塾が始めたのかもしれない。  給食当番でもない限りマスクなどつけなかった私には、教室の半分以上の生徒がマスクをした状態で授業をするのは違和感があった。生徒が無表情に見えるのだ。口裂け女がマスクをしていたのは、裂けた口を隠すだけでなく、何となく違和感を感じさせるアイテムだったのかもしれない。  さて、マスクが普通になった日常だが、中高生の多くがつけていない。彼らが何故つけていないのか、マスク警察のおじさんとは違った意味で気になる。医学的な意味を離れ、道徳的な意味をもったマスクに対する抵抗(そうであれば面白いが)なのか。それとも「ダサいのか」。  今や、マスクをしないことが違和感を感じさせる世の中になるとは思いもよらなかった。口裂け女もさぞ困っていることであろう。