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防災甲子園

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防災甲子園をご存じだろうか。全国の防災教育に取り組む学校や団体がエントリーし、兵庫県が表彰するという催しです。現職最後の年に、この取り組みにかかわっているNPOのすすめでエントリーをした。さすがに1年目から入賞するのは難しかったが、それがきっかけとなり、毎日新聞で全国に紹介されることとなった。

環境教育をすすめる上での留意点

地域資源と環境教育  教育現場を見てみると、課題教育と言いながら後回しにされているものがある。私が力を入れてきた防災教育もその一つで、学校間に大きな温度差が存在する。「環境教育」は現職の時に興味を持っていたものの、結局、力を入れずに終わってしまった。昨年度の大学院での授業を通じて、環境教育の持つ可能性をと強く感じた。現場の先生に環境教育を通じた学びを進めてもらいたいと考え、その時のレポートをここに上げます。 「環境教育をすすめる上での留意点」 一.はじめに  環境教育は生涯にわたり行われるものであるが、全ての人々を対象とする点では義務教育の果たす役割は大きい。平成 19 年の改正学校教育法では「義務教育における教育の目標の一つ」と位置づけ、それに基づく学校指導要録は「環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養う(総則)」 ( 1 ) と述べられている。  環境教育と地域の関わりは、地域を「自然環境、伝統や文化などの地域の資源を保護・活用している地域」(小3・4年社会)と捉え、「持続可能な社会の構築のため,地域における環境保全の取組の大切さ」(中学社会)を理解し、「体験活動,観察・実験 , 見学や調査,発表や討論などの学習活動」(総合的な学習) ( 2 ) が求められている。つまり、地域の身近な問題に目を向けた内容で、身近な活動から学習を始め、家庭や地域社会と連携し、学校で学んだことを家庭や地域社会での生活に生かし、日常生活の中での環境保全のための取り組みも意識的に行う児童生徒を育てることが環境教育と述べられている。  担任が各教科を横断的に授業を行い(近年では高学年で一部教科担任制を取る学校も多い)、生活科から地域を教材としている小学校においては、地域と結びついた環境教育を行うことは比較的行いやすい。県下で行われたアンケートでも、地域学習を重点領域に置いている学校の9割が環境教育の視点で行われている ( 3 ) 。しかし、中学校では、各教科の学習内容をふまえ、教科の枠を越えた取り組みが弱く、また、総合的な学習においてその対象として地域を扱うことも少なくないが、環境教育という観点から取り組みが行われることは少ない。   環境教育に限らず、地域資源を活用するメリットは、

演劇 「北但大震災」

演劇 「北但大震災」  私が現職だったとき、1年生とやった演劇の台本です。遺された資料をもとにして、震災当日の港地区の集落がこのような様子ではなかったかと考えたフィクションです。素人が書いたので恥ずかしいものでしたが、新聞でも紹介して頂きました。  兵庫県の場合、阪神淡路を題材にした防災副読本がありますが、身近な所に教材が眠っています。災害を通して地域を見つめ直すことで、地域の課題に気づき、取り組みを行うことが大切ではないでしょうか。        (防災学習や地域学習の教材としてご自由にお使いください) 2014文化祭      <プロローグ>     スライド   2011年 3月11日      未曾有の地震が東日本を襲った           映像                津波 → 火災 → 街並み     1925年 5月23日      この村も地震に襲われた     北但大震災 <場面1 津居山> (安二郎)みさこ。今日のおかずのジンバの煮付けはうめえなあ。 (みさこ)向かいからおっそわけしてもらったわ。やわらかく煮てあるでおばあちゃんもどうぞ。 (たづ) すまんの。なにからなにまで、みさこに面倒をかけてしまって申し訳ねえ。 89にもなったで、いつ死んでもええが、なかなかお迎えがこんでえ。 (みさこ)なに言っとんなるだあ。そんな言っとると本気で怒るで。 (たづ) すまん。すまん。やさしーしてくれるで、ありがてぇもんだなあ。 ところで安二郎。足のけがの具合はどうだいや。 (安二郎)船の修理でのケガも2ヶ月経ったでだいぶんよくなったけど、まだまだ自由には歩けん。 (みさこ)お父さん。あせったらあかんで。よくなったら、また元のように船に乗って、ようけ魚を獲ってきてえよ。     音響   大砲のような音(3回) (みさこ)今の音、なんでえな。 (安二郎)大砲みていだけど、沖で海軍が訓練しとるんだらあか。 午前11時10分02秒                          地震の音声にあわせスライドをゆらす                 (安二郎)地震だ! ふせろ。    3人、座布団を被ってふせる   ゆれが止まる (安二郎)また来るで。今のうちに火い消せい。

昭和初期の近代 建築群震災の記憶する

大学院での課題として作成しました。 <無断使用はお断りしますが、郷土学習や防災学習などの教育目的での使用はOKです。使われる場合は一声おかけください。>       昭和初期の近代建築群 震災の記憶する      JR豊岡駅前から一直線に伸びる大開通りを東に歩くと、京都のように区画ごとに道路が直角に交わっていることに気づきます。通りの中央にある市役所あたりから、ちょっと洒落た古いコンクリートの建物が見られます。これらは、八十数年前に地震で焼失した豊岡の街がそこから立ち直った姿です。 1925年5月23日に豊岡市を流れる円山川河口付近の田結断層を震源とする M6.8 の地震が発生。旧豊岡市、城崎町、港村で合わせて 3622 戸の約5割が焼失、死者が 422 人にもおよびました。震源に近かった旧港村や旧城崎町では多くの家屋倒壊による圧死者に加え、発生が昼前だったため、昼食準備の火による火災で多くの焼死者が出ました。旧豊岡町では市街地と離れた豊岡駅をつなぐ道沿いで、水田を埋め立てた軟弱地盤に加え、東西方向の揺れによってほとんどの家屋が倒壊しました。比較的硬い地盤の上に開けていた町の中心部は倒壊が少なかったものの、その後、数ヶ所から発生した火災により、市街地の 57 %が消失しています。 当時は急速な近代化により人口増加への対応に迫られていました。大正7年に、度重なる水害の原因となる円山川をつけかえ、同時に、豊岡駅を起点に放射状に道路を配置、比較的よく残る条里制を利用して格子状に区画整理を行い、中央に町役場、郵便局、警察税務署、消防本部などの行政機関を配慮する「大豊岡構想」を打ち出しました。旧円山川に沿って南北にのびた市街地をそれまでの街道や水運から鉄道輸送に対応した街に作り変えるさなかの震災でした。 大豊岡構想を元に県道拡幅を加えた計画案を作成したが、震災前からの住民間の対立から支持が得られませんでした。買収による道路整備、防火建築区域指定と建築費補助が行われ、格子状道路、斜線道路と円形公園など近代的な都市形態が実現しました。 特に重視したのは建築物の強化と防火で、道路