昭和初期の近代 建築群震災の記憶する

大学院での課題として作成しました。
<無断使用はお断りしますが、郷土学習や防災学習などの教育目的での使用はOKです。使われる場合は一声おかけください。>


      昭和初期の近代建築群 震災の記憶する
    
JR豊岡駅前から一直線に伸びる大開通りを東に歩くと、京都のように区画ごとに道路が直角に交わっていることに気づきます。通りの中央にある市役所あたりから、ちょっと洒落た古いコンクリートの建物が見られます。これらは、八十数年前に地震で焼失した豊岡の街がそこから立ち直った姿です。
1925年5月23日に豊岡市を流れる円山川河口付近の田結断層を震源とするM6.8の地震が発生。旧豊岡市、城崎町、港村で合わせて3622戸の約5割が焼失、死者が422人にもおよびました。震源に近かった旧港村や旧城崎町では多くの家屋倒壊による圧死者に加え、発生が昼前だったため、昼食準備の火による火災で多くの焼死者が出ました。旧豊岡町では市街地と離れた豊岡駅をつなぐ道沿いで、水田を埋め立てた軟弱地盤に加え、東西方向の揺れによってほとんどの家屋が倒壊しました。比較的硬い地盤の上に開けていた町の中心部は倒壊が少なかったものの、その後、数ヶ所から発生した火災により、市街地の57%が消失しています。

当時は急速な近代化により人口増加への対応に迫られていました。大正7年に、度重なる水害の原因となる円山川をつけかえ、同時に、豊岡駅を起点に放射状に道路を配置、比較的よく残る条里制を利用して格子状に区画整理を行い、中央に町役場、郵便局、警察税務署、消防本部などの行政機関を配慮する「大豊岡構想」を打ち出しました。旧円山川に沿って南北にのびた市街地をそれまでの街道や水運から鉄道輸送に対応した街に作り変えるさなかの震災でした。
大豊岡構想を元に県道拡幅を加えた計画案を作成したが、震災前からの住民間の対立から支持が得られませんでした。買収による道路整備、防火建築区域指定と建築費補助が行われ、格子状道路、斜線道路と円形公園など近代的な都市形態が実現しました。
特に重視したのは建築物の強化と防火で、道路の新設と拡幅の基準を「幅員一二~八間」と定め、火伏せの役割を持たせました。兵庫県は「防火建築補助規定」を定め、耐火鉄筋構造の建物には一坪50円の補助金を出しています。木造の建築費用が50円であったので、補助金申請が48件(42軒が現存)あり、駅通りをはじめ、市街地の各所に鉄筋コンクリートによる復興建築物が建てられた。こうしてモダンな街が作られました。

現存する建物が多く見られるのはJR豊岡駅から東へのびる「大開通」。その真ん中に豊岡市役所旧館や旧南庁舎別館(旧兵庫県農工銀行・現1925)があります。この周辺には、外観の意匠にロマネスク・バロック・表現派風など多様なスタイルが見られる個人商店が並び、個性豊かな建物の壁面には家紋やシンボルマークが描かれ、様々なパラペットが見られます。

昭和初期の一定期間に建てられたものが集中して残るのは全国的にも珍しく、駅通り以外にも、宵田通りや元町通り、生田通にも点在、また、木造トラスト構造のアーケードを持つ「公設市場」に食料品店を集中させた。用水路上に鉄筋コンクリート造の街路便所3ヵ所に設置され2つが現役で使われています。


近年、宵田通りが「カバンストリート」として活気を取り戻してきているものの、それ以外は地方都市の抱える問題「シャッター通り」状態で、建物を維持することもままならず、一昨年も一軒が取り壊されました。一部の建物は登録有形文化財に指定されており、ヘリテージマネージャーらによって登録文化財や県の景観重要建築物(群)に指定への動きもあるそうです。

城崎町では、西村町長が震災直後から温泉と教育の復興を打ち出し、区画整理による道路・河川、町の中心部の整理、共同浴場の再建をめざします。崩落した玄武洞の玄武岩を使い、しばしば水害を起こし大渓川を改修、護岸に柳を植えた。区画ごとに火伏せの空間を配置し、大きな旅館は木造三階建てで再建しました。こうして城崎温泉の風情ある景観が生まれました。現在、老朽化した旅館の建て替えに時期に当たり、木造三階建ての可能性を探っています。両町とも震災から復興に取りかかりましたが、3年後には丹後大震災(1948年)が発生し被害もでましたが、昭和3年頃には新しい街となっています。

震災から八十数年が経ち、市内では当時を知る人はほとんどいなくなりました。震源地にある港中学校の生徒が地域で聞き取りをしたところ、当時を知る人だけでなく、経験者から話を聞いた人も少なく、記憶も曖昧なものだったそうです。城崎や港地区には記念碑やモニュメントが数ヶ所存在しているものの、震災の痕跡をうかがわせるモノは残っていません。消失の上、瓦礫は復興の埋め立てに利用されたためで、震災復興建築群や城崎の景観は、当時の建築様式や街づくりを伝えるだけでなく、震災の記憶を残す存在だと言えます。

震災復興建築は個々の建築物の持つ多様なスタイルや特徴、近代都市建設を知る上で貴重な資源で、復興建築群も近代化遺産に指定されています。歴史関係、建築関係、まちづくりに取り組む人たち町歩きのイベントや「全国町並みゼミ」行うなど、保存や紹介を行っています。建築や町並みに関心を持つ人だけでなく、一般の人たちにも興味を持ってもらえるモノだと思います。景観の持つ価値は観光資源としての価値も大きいですが、それらが持つストーリー性があまり紹介されていないために、その面白さに気づかないまま素通りしているのが現状です。
また、震災から立ち直り、災害に強い都市を造ろうという地域の願いや意思が表れたモニュメントであると同時に、震災を記憶するという側面を持っています。災害へ警鐘を鳴らすものとして防災学習や地域防災に活用することが出来ます。豊岡盆地を流れる円山川はしばしば氾濫を繰り返し、後背湿地に広がる市街地を悩ませて、水害に備えた建築様式や過去の水害後も市内各所に見られます。これらをつなぎ、災害を引き起こす自然の特性、負の面だけでなく、その中で特性を生かした暮らしぶりや地域資源との結びつきなど、災害を通して地域を学ぶ機会になると考えます。教育資源として、観光資源として魅力あるものにすることが出来ると考えます。


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