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演劇 「北但大震災」

演劇 「北但大震災」  私が現職だったとき、1年生とやった演劇の台本です。遺された資料をもとにして、震災当日の港地区の集落がこのような様子ではなかったかと考えたフィクションです。素人が書いたので恥ずかしいものでしたが、新聞でも紹介して頂きました。  兵庫県の場合、阪神淡路を題材にした防災副読本がありますが、身近な所に教材が眠っています。災害を通して地域を見つめ直すことで、地域の課題に気づき、取り組みを行うことが大切ではないでしょうか。        (防災学習や地域学習の教材としてご自由にお使いください) 2014文化祭      <プロローグ>     スライド   2011年 3月11日      未曾有の地震が東日本を襲った           映像                津波 → 火災 → 街並み     1925年 5月23日      この村も地震に襲われた     北但大震災 <場面1 津居山> (安二郎)みさこ。今日のおかずのジンバの煮付けはうめえなあ。 (みさこ)向かいからおっそわけしてもらったわ。やわらかく煮てあるでおばあちゃんもどうぞ。 (たづ) すまんの。なにからなにまで、みさこに面倒をかけてしまって申し訳ねえ。 89にもなったで、いつ死んでもええが、なかなかお迎えがこんでえ。 (みさこ)なに言っとんなるだあ。そんな言っとると本気で怒るで。 (たづ) すまん。すまん。やさしーしてくれるで、ありがてぇもんだなあ。 ところで安二郎。足のけがの具合はどうだいや。 (安二郎)船の修理でのケガも2ヶ月経ったでだいぶんよくなったけど、まだまだ自由には歩けん。 (みさこ)お父さん。あせったらあかんで。よくなったら、また元のように船に乗って、ようけ魚を獲ってきてえよ。     音響   大砲のような音(3回) (みさこ)今の音、なんでえな。 (安二郎)大砲みていだけど、沖で海軍が訓練しとるんだらあか。 午前11時10分02秒            ...

昭和初期の近代 建築群震災の記憶する

大学院での課題として作成しました。 <無断使用はお断りしますが、郷土学習や防災学習などの教育目的での使用はOKです。使われる場合は一声おかけください。>       昭和初期の近代建築群 震災の記憶する      JR豊岡駅前から一直線に伸びる大開通りを東に歩くと、京都のように区画ごとに道路が直角に交わっていることに気づきます。通りの中央にある市役所あたりから、ちょっと洒落た古いコンクリートの建物が見られます。これらは、八十数年前に地震で焼失した豊岡の街がそこから立ち直った姿です。 1925年5月23日に豊岡市を流れる円山川河口付近の田結断層を震源とする M6.8 の地震が発生。旧豊岡市、城崎町、港村で合わせて 3622 戸の約5割が焼失、死者が 422 人にもおよびました。震源に近かった旧港村や旧城崎町では多くの家屋倒壊による圧死者に加え、発生が昼前だったため、昼食準備の火による火災で多くの焼死者が出ました。旧豊岡町では市街地と離れた豊岡駅をつなぐ道沿いで、水田を埋め立てた軟弱地盤に加え、東西方向の揺れによってほとんどの家屋が倒壊しました。比較的硬い地盤の上に開けていた町の中心部は倒壊が少なかったものの、その後、数ヶ所から発生した火災により、市街地の 57 %が消失しています。 当時は急速な近代化により人口増加への対応に迫られていました。大正7年に、度重なる水害の原因となる円山川をつけかえ、同時に、豊岡駅を起点に放射状に道路を配置、比較的よく残る条里制を利用して格子状に区画整理を行い、中央に町役場、郵便局、警察税務署、消防本部などの行政機関を配慮する「大豊岡構想」を打ち出しました。旧円山川に沿って南北にのびた市街地をそれまでの街道や水運から鉄道輸送に対応した街に作り変えるさなかの震災でした。 大豊岡構想を元に県道拡幅を加えた計画案を作成したが、震災前からの住民間の対立から支持が得られませんでした。買収による道路整備、防火建築区域指定と建築費補助が行われ、格子状道路、斜線道路と円形公園など近代的な都市形態が実現しました。 特に重視したのは建築物の強化と防火で、道路...
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2015.6.7  鉢伏山 小代地区から見た鉢伏山 鉢伏山頂から小代の全体が見渡せる。すぐそこに見えるのに、そこから登ってくる機会はあまりない。麓の尼崎市立の野外活動施設からコースがあるということなので出かけてみた。 蘇武トンネルが出来てから、小代は便利になったが、奥まではなかなか来ることは無い。何十年ぶりだろうか。とちのき村ははじめてでったが、鉢伏の山体を壁にした斜面に、山奥とは思えない立派な施設が並んでいる。 石楠花公園を抜けて高丸直登コースを進む。最初の45分は崖をジグザグに登って行く。道を間違えたかと思うほど急になってきたが、何とか枝尾根の上に出た。尾根の南に回り込むと高丸が見えてくる。ようやく主尾根が見えてくるとススキの原に入り、傾斜も緩やかになる。1時間15分でハチ高原からの道と合流する。 ここからは何度となく歩いたが、来る度にエグレがひどくなる。振り返ると、先月の山焼きで真っ黒だった高丸から先の尾根は、元の草原に戻り、きれいな緑になっている。山頂直下の笹原は、少しだけスズコが残っていた。先客の小学校が2団体、山頂は賑やかだった。 下山は高丸から谷に向かって下る。途中から林道になり、トチやブナの林に下って行く。とちのき村からの声が聞こえるようになってくる、右手の森へ入り、谷を回り込んで施設のキャンプ場に到着する。高校生と思われる集団が活動していた。 帰路につく前に「八反の滝」に寄ってみた。昭和49年に鉢伏山頂にリフトで上がった大阪資生堂のグループが、ハチ高原ではなく、すぐ下に見えた備集落に向かって下り、1人を除いて滝側の斜面から落下して亡くなったという事故があった場所だ。上から見るとすぐそこに見えるが、下山に使った尾根以外は緩やかに下ってくる所はない。山容はなだらかでリフトで簡単に登れるが、決して穏やかな山ではないことは、今日のコースでよくわかった。
北但震災90周年記念行事  今年は北但震災から90年、いくつか記念行事があったが、あまり注目もされずに終わった感がする。豊岡市主催の行事では、参加者は多かったが、ほとんどが区長や行政など、声をかけられて来たと思われる人であった。  内容は開会行事の後、郷土史家の中村英夫さんの講演、昨年こうのとり戯曲賞を取った西史夏さんの「Bridge」を木野花さんが朗読、そして西史夏さんの講演であった。中村さんの講演は何度か聴いたが、いつも豊富な資料に感心したが、ご本人も言われていたが、与えられた時間が短く、かなり端折った感じかがした。その後の朗読や講演も内容としては良かった。今回の行事の中ではこちらがメインとなっているのであろうと思えた。  戯曲というものを知らない私が言うのもなんだが、「Bridge」は作品として素晴らしいものなのだろうが、「地震を語り継ぐ」にはどうかと思った。地震、火災、温泉旅館、背景としての北但震災であって、描かれたいのは主人公の人生や思いであって、極端な言い方をすれば、設定は城崎でなければならなかったのだろうかと思えた。  当時の西村町長が行った震災からの復興が現在の城崎を形作っている。まさに城崎は冬の大火災からの復興や旅館の改築など、新たな課題に取り組んでいる。豊岡では、多くの学生がボランティア活動を行い、田結地区では消火活動を優先し、圧死者は出たものの、焼死者が無かった。阪神淡路大震災の70年前に震災対応とその後についての教訓を残している。  中村さんの講演では、これらのことも取り上げられていた。これを基調講演として今後の取り組みや豊岡市としてのあり方などを検証し、市としての提言なり、メッセージを市民だけでなく全国への発信をして欲しかった。阪神淡路大震災20年の行事では、東北大震災と連携し、若者による提言なども行われた。これから地域を支える人たちの意識を高める上でも良いことだと思う。  城崎の慰霊行事や、田結地区のお百度参りという形で震災は語り継がれているものの、23号台風とは違い、体験者もほとんど存命されておらず、歴史の中の出来事という意識が強い。市の広報に今年1年間震災についてのコラムを載せる、市役所の入り口あたりに展示コーナーを置く、震災マップを作る、防災教材を作るなどなど、震災を発信する...
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2015.5.23  北但震災90周年 北但震災90周年  今日は北但馬大地震(北但震災)の90周年です。豊岡市田結沖を震源に発生した地震は各地で火災を引き起こし多数の死者を出しました。特に城崎の温泉街は壊滅状態でした。  震災火災、共助、ボランティア、復興のあり方など、学ぶべき事の多く、北但震災は過去のものとしてとらえるので無く、これから起こる地震に備え検証すべきものとして捉えるものだとおもいます。昨年は「情報を得るためには発信をしなければ」と震災劇を行ったり、防災甲子園に参加するなどに生徒たちと取り組み、新聞にも取り上げてもらいました。  市による記念行事も予定されていますが、あまり関心を持たれていないようです。一度動いた断層は数万年は動かないが、日本海には未知の断層が無数に有ります。また、湖の上に出来た堆積層に出来た豊岡盆地は、阪神淡路の時に見られたように、離れた地震でも大きく揺れます。豊岡市にとって、今日が新しい地震防災のスタートになって欲しいと思います。
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2015.5.21  三角山 三角山(鳥取市用瀬) 黒田庄に三角点山とういのがあって、「それはないだろう」と突っ込みを入れたくなったことがあるが、こちらは地形図にも名前が載っている山で突っ込みようが無い。以前、智頭の篭山で、地元の方がこの山を指さして「低いけれど結構きつい山」と教えてもらった。確かに、低いけれど尖った三角錐の形を見て取れた。山渓の記事では2時間弱のコースタイムと書かれていたので、軽い気持ちで出かけた。 用瀬は始めて訪れるが、こぢんまりとした味わいのある町だが、道が狭く対向車が来ないかとどきどきしながら鳥取市用瀬総合支所近くの登山口に辿り着く。 日蓮宗の道場を過ぎ、急な舗装路を進むと女人堂がある。そこから左手に山へ入って行く。等高線は込み入ってはいないが花崗岩の風化した道をジグザグに上がって行く。女人堂から30分ほどで景石城跡の分岐となる。 少し緩やかになったのにホッとしたのも束の間、すぐに先ほどより急な道が現れる。ほぼ30分、急な登りが続く。ただ、道はしっかりとして登りにくくは無い。時々ロープが出てくるが、お世話になるほどでは無い。「洗足山へ・用瀬アルプス」の分岐を過ぎると最期の急登を経て山頂となる。 山頂は狭く、巨岩が点在し、その間に三角山神社本殿が置かれている。小さいが立派な造りで、信仰のあつさを感じる。地元の山の会の方がおられ、周辺の山の話を聞く。先ほどの用瀬アルプスへの縦走路を整備されたそうで、地図を頂いた。山頂からは南と西が開け、南東に氷ノ山、扇ノ山、南に篭山、東に鷲峰山が見える。 下山は、女人堂への分岐から城山を目指す。北に進み、少し登ると「子持ち松砦跡」のピークに出る。ここと城山は同じ標高なので、50mばかり下り、登り返す。さすがに山城や砦の道だけあって急な上り下りだった。 景石城趾は整備され見晴らしが良い。北に日本海、眼下に用瀬の町並みが見られる。ここから北西に回り込み二ノ丸、三ノ丸と下る。急な斜面をジグザグに下って行くと、標高150m付近で、地形図には無い舗装道路に出る。 この登山口までは車で上がってこれるようだが、すぐ先で車止めがあり、その先は山麓の遊歩道となっている。森の中を等高線に沿って歩くことが出来、女人堂の手前に合流する。山頂からは1時間半程の下り...

2015.5.14 綾部山

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2015.5.14   綾部山(兵庫県たつの市) 綾部山 この山は関西では梅林で有名で、「一目2万本」が売りとなっている。しかし、梅のシーズンはすごい人出の上、入園料を取られると言うことで、近くまでは行ったことがあるが、登ったことはなかった。数ヶ月前の「山渓」に紹介されていたので、姫路に出かけるついでに寄ってみた。 新舞子近くの市営グランドに車を置いて北側の登山口まで移動する。「絶対晴れだが暑さが心配」と思っていたが、雨がパラつき出す。ゲートくぐり車道を歩く。すぐに菖蒲園があるが、以前は駐車場だったような気がする。途中から遊歩道に入り、梅や雑木の混じる林を登って行く。 唐梅楼 尾根に出るといきなり中国風の楼閣があらわれる。雨宿りと昼食を兼ねてお世話になる。2階に上がると、室津の岬、小豆島、家島群島、姫路の工業地帯、姫路北部の山々が見渡せる。雨は強くないが雷が鳴り出したので、食事もそこそこに山頂へ向かう。少し下ると、中国風の建物、駐車場を通って「冒険の森」に入る。すぐに南の海に開けた広場に出る。 眼下に新舞子の浜が開ける。潮干狩りのシーズンは賑わうらしいが、今日は人気は無い。左端には京見山が見える。雨は弱まってきたが、雷鳴は収まらないので下山を急ぐ。途中の側溝のふたが梅の花がデザインしてあった。 下山途中に通り抜けした新舞子荘も休館中で誰一人おらず、全く人とは会うことは無かった。シーズンオフだからあたりまえだが、人工物の多い所で人に会わないのは変な感じがする。天気も悪く肌寒く、パットしない山歩きとなった。